天下一の軍師…黒田官兵衛のゆかりの地を巡る

黒田官兵衛
九州・官兵衛のゆかりの地MAP
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福岡県福岡市

福岡市博物館

黒田家名宝展示室にて黒田家ゆかりの品々を常設展示しています。

光雲神社

黒田官兵衛と長政父子を祀る神社。その名前は二人の法名から一文字ずつ取って付けられたものです。
元々は福岡城内本丸天守台の下に造られた神社です。

福岡城跡(国重要文化財)

官兵衛と長政が1601年(慶長6年)から7年がかりで築城した城。平山城で大中小の天守台と47の櫓がありました。

祟福寺と福岡藩主黒田家墓地

1600年(慶長5年)、福岡藩初代藩主・長政により現在地に移転され、黒田家の菩提寺として庇護を受けたお寺です。
藩祖・官兵衛、初代・長政、四代・綱政、六代・綱高、七代・治之、九代・斉隆の歴代藩主とその一族、直方藩主などを中心に祀っています。

舞鶴公園

福岡市の中心地、福岡城をシンボルとした公園。
黒田官兵衛が晩年を過ごした御高(鷹)屋敷の跡地があります。

福岡県大宰府市

如水の井戸(太宰府天満宮境内)

官兵衛は福岡城内の居館が完成するまでの間、太宰府天満宮境内に仮住まいしていました。
その時、茶の湯で使っていた井戸です。

福岡県嘉麻市

麟翁寺

黒田二十四騎の一人で、黒田節にも謡われた豪傑「母里太兵衛」の菩提寺。
堂内には、友信公の子、孫のお墓が3基並んで建てられているほか、山門には一夜城伝説の舞台としても有名な益富城の搦手門が移築されています。

益富城

黒田二十四騎の一人、後藤又兵衛が築城した筑前六端城のひとつ。城郭の基礎部分、石垣、礎石が残っており、後藤又兵衛の築城技術を観察できます。
豊臣軍の九州征伐の折、敵方に対して一夜にして城を築いたかのように見せかけた「一夜城伝説」が有名です。

福岡県北九州市

小倉城

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの際に西軍・石田三成に属した小倉城主・毛利勝信を官兵衛が攻めて落城したと言われています。
初期天守閣の望楼に通じる外観構造「唐造り」の名城として知られており、現在は高度な技術を駆使した展示などが人気です。 入場券付コースはこちら

福岡県筑後市

坂東寺・水田天満宮

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで東軍の徳川方に味方した肥後の加藤清正、豊前の黒田官兵衛、肥前の鍋島直茂・勝重父子の軍勢は、西軍の石田方に味方した柳川城主立花宗茂を攻撃するため、三方より柳川城に押し寄せました(八院の合戦)。この合戦を集結させるために、加藤清正と官兵衛が水田口(筑後市)の坂東寺で会見し、立花宗茂に柳川城の開場を勧めました。これらの会見の際に、坂東寺・水田天満宮で官兵衛が陣を張ったと言われています。

大分県中津市

秀吉の九州平定の先発隊としての手柄により、豊前6郡を与えられて入部した官兵衛は、立ちはだかる地元豪族との戦いを平定後、川と海を自然の要塞にした「中津城」を築城し、初代中津城主になりました。
河口に築城したのは当時の政治・経済の中心である近畿へ海路を確保するためと云われており、官兵衛はこの地で関ヶ原の戦いの刻に臨みました。

佐賀県唐津市

名護屋城天守閣跡

名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城。1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が撤退するまで、7年間大陸侵攻の拠点となっていました。
城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大阪城に次ぐ規模を誇った。周囲には130以上に上る諸大名の陣が構築され、全国から20万人を超える人々が集まった。現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国に特別史跡に指定されています。

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