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古都京都の文化財

京都府・滋賀県世界遺産分布図
世界に誇る日本の文化!
日本の首都東京が政治経済の中心なら、京都は日本の歴史と文化の首都と言ってもいいでしょう。
京都には数えきれない寺院仏閣があり、17ケ所の世界文化遺産登録がございます。
京都イメージ
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京都は19世紀まで千年にもわたり 、日本の政治・文化の中心でした。
時の権力者、徳川家の居城だった二条城の外側は質素に見えますが、内装は豪華で派手に造られています。

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京都の世界文化遺産

賀茂別雷神社 (上賀茂神社)
創建は古く、7世紀末にはすでに有力な神社となっており、さらに平安建都以降は国家鎮護の神社として朝廷の祟敬を集めていました。
現在の本殿と権殿は文久3年に造替されたものです。境内には寛永5年に造替されたと考えられる、細殿以下34棟の重要文化財の建物が残り、古代の神社景観を現在に伝えています。
京都の三大祭りのひとつでもある葵祭(あおいまつり)が催されるなど、神事や祭事の舞台としても親しまれています。

賀茂別雷神社 (上賀茂神社)

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賀茂御祖神社 (下鴨神社)
1629年造替。旧境内地では、縄文時代の遺跡も発見されており、歴史的に重要な場所に位置していることが、早くから知られています。
平安京造営にあたっては、国家鎮護の神社として朝廷の祟敬を集めており、11世紀初頭には現在に近い姿に整えられました。応仁・文明の乱により、境内は当時広大な原野であった糺(ただす)の森の樹林とともに焼亡しました。天正9年の造替の時、境内全体に整備が進めら、平安時代の状況が再現されました。 葵祭が行われるなど古代の祭事や芸能を継承し、境内の糺の森は四季の移り変わる林泉の美しさが「源氏物語」をはじめ、数々の文学に語り継がれています。

賀茂御祖神社 (下鴨神社)

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教王護国寺 (東寺)
平安京造営に際し、国家鎮護のために建立された官寺のひとつです。弘仁14年には空海に下賜されて真言密教の道場となり、寺院として本格的な伽藍が整えられました。南大門・金堂・講堂・食堂・北大門が南北軸上に並び、この東南方には五重塔が、西南方には灌頂院が配されて、創建当時の伽藍配置を伝えており、平安京復元の基準としての意味をもっています。金堂は慶長8年に再建されたもので、桃山時代を代表する豪壮雄大な建築です。
五重塔は寛永21年に再建され、その高さは現存する塔のなかでは最大で、京都の景観的シンボルになっています。

教王護国寺 (東寺)

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清水寺
宝亀9年に僧延鎮が、音羽の滝上に観音を祀ったことに始まり、延歴17年には坂上田村麻呂が仏殿を建立して、桓武天皇の勅願寺となったと伝えられています。現在は、西門・三重塔・経堂・開山堂・轟門・朝倉堂・本堂・阿弥陀堂・が東西に並び、その他周囲に仁王門・馬駐・鐘楼・北総門・釈迦堂・奥の院・子安塔・鎮守堂・そして鎮守社の地主神社殿が建っています。大半のものは17世紀前半に再建されたものですが、こうした景観は13世紀には成立していました。 伽藍の中心となる本堂は、寛永10年に再建された懸造の建物で、いわゆる「清水の舞台」として知られ、林立する高い束柱が貫き、横断を横に通して豪快な姿を見せています。

清水寺

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延暦寺
多くの僧を排出した日本仏教の母山。設立年代8世紀末・17世紀再興。 延暦寺は日本に天台宗を伝えた最澄が平安京の鬼門鎮護のために建立した比叡山寺に始まり、後に法然・栄西・親鸞・道元・日蓮ら日本の仏教各派の始祖となった高僧を世に送り出した修行の寺です。10世紀後期には現在のように東塔、西塔、横川の3地域を中心に堂舎が整備され、興隆していました。火災のたびに再建されてきましたが、とくに元亀2年には伽藍の大半が兵火により、焼失しました。総本堂である根本中堂は寛永17年に再建され、今世まで現存しています。このほか、3地域には17世紀までの堂舎が残されており、当時の伽藍の様子を伝えています。

延暦寺

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醍醐寺
京都最古の建物。五重塔から桃山時代までの庭園まで、設立年代は9世紀末に溯ります。
醍醐寺は伽藍が山上と西麓の平地とに分けられており、山上伽藍は貞観16年に、平地伽藍は延喜4年に整備が始められたと言われています。山上伽藍の薬師堂は、保安5年に再建されたもので、平安時代初期の礼堂をもたない仏堂の規模・様式を伝えています。また鎮守社清龍宮拝殿は、永享6年に再建された懸造の建物で、意匠的には住宅風に仕上げられています。平地伽藍のうち、天暦5年に建立された五重塔は京都における現在最古のもので、初層内部に両界マンダラを描く点は、密教寺院としての特色がみられます。
金堂は慶長5年に紀州満願寺の金堂を移築したもので、平安時代末期の様式を残しています。

醍醐寺

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仁和寺
平安王朝文化の香りただよう御室御所。設立年代9世紀末、17世紀中期再興。 仁和寺は仁和4年に宇多天皇により完成した勅願寺で、また皇子・皇孫が門跡を務めたことから門跡寺院の筆頭とされて、「御室御所」と言われています。応仁の乱により全伽藍を焼失しましたが、寛永18~正保3年に再興され、この時当時御所にあった紫宸殿と常御殿が移築され、それぞれ金堂と仁和寺御殿(明治20年焼失)に転用されました。 清涼殿の古材を用いて御影堂が造営されたほか、仁王門・中門・五重塔などが建てられ、境内の整備が進められました。桃山時代の宮殿建築の趣をよく伝えています。

仁和寺

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平等院
平等院はもとは藤原道長の別荘だったものを、その子関白頼道が永承7年に寺院へ改めたものです。 翌天喜元年に定朝作阿弥陀如来を安置した阿弥陀堂(現在の鳳凰堂)が建てられ、さらに12世紀はじめには、法華堂・五大堂などの諸伽藍が造営されました。その後、建武3年の戦火により大半の伽藍が焼失しましたが、現在は鳳凰堂と鎌倉時代再建の観音堂・鐘楼などが残っています。

平等院

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宇治上神社
古代に設立された、現存する日本最古の神社建築。11世紀、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後近住民の祟敬を集めて、社殿が維持されました。 本殿は正面一間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の覆屋根で覆った特殊な形式となっています。 建立年代については平安時代の後期に造営されたものとみられています。現存する神社本殿としては最古の建築です。
また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿です。 神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、住宅風の軽快な手法が鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられています。

宇治上神社

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高山寺
宝亀5年に開創された寺を、13世紀初頭に明恵上人が中興して、高山寺と改称したことに始まります。中興当初は金堂・阿弥陀堂・十三重堂・東西軽蔵などが立ち並んでいましたが、その後、中世の戦乱期に荒廃し、江戸時代に入って、寛永11年に再興されました。石水院は明恵上人時代の唯一の遺構で、13世紀前半に建てられた住宅風の建築です。 自然と調和した建築である石水院は、訪れる者に安堵感を与え、日本文化のひとつのあり方を示すものです。

高山寺

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西芳寺 (苔寺)
後世の庭園に大きな影響を与えた名園。設立年代14世紀中期。 天平年間に僧行基により開かれたと伝え、その後、歴応2年に夢窓疎石が禅宗寺院として復興したものです。 復興当初は、平地部に二層の楼閣の瑠璃殿をはじめとする、庭園建築と花木に彩られた池庭を、山腹には洪隠山と呼ばれる枯山水石組と座禅堂指東庵を配し、さらに山頂の展望地点には縮遠亭を建てて、華やかな風景を呈していたと伝えられています。文明元年、兵火により建物は失われましたが、庭園は夢窓疎石が整備した地割と、石組がすべて苔に覆われながら保持されており、荒廃後の姿を名園と評価されています。現在残る茶亭の湘南亭は、16世紀末~17世紀初頭に建てられたものです。庭園と建築の一体化、確実な手法の石組、眺望という視点など、前代までのものにはみられない形式が取り入れられ、後世の庭園に大きな影響を与え、日本庭園史上、重要な位置を占めるものです。

西芳寺 (苔寺)

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天龍寺
禅宗大寺院の中の鑑賞本位の庭園。設立年代14世紀中期。 天龍寺は嵐山を背景として、建長7年に造営された離宮を、歴応2年に禅寺へ改めたものです。当初は三門・仏殿・法堂・万丈が一直線上に並ぶ、典型的な禅宗寺院の伽藍が整えられ、さらに万丈の裏には夢窓疎石が携わって、自然の地形を大きな築山に見立てた庭園が造られました。その後、たびたび兵火によって主要伽藍は失われましたが、庭園は現在も残されており、園池の北汀にかけては作庭後、何回か手が加えられているものの、当時の趣を伝えています。

天龍寺

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鹿苑寺 (金閣寺)
権力者の王朝文化への憧れ。設立年代14世紀末、鹿苑寺は鎌倉時代に造られた貴族の別荘です。足利義満が応永4年に譲り受け、粋を尽した別邸北山殿に造り替え、さらに義満の死後、応永29年に夢窓疎石を開山し、禅寺とされたことに始まります。その後衰微しましたが、江戸時代に金閣および庭園の修理がなされました。庭園は衣笠山を借景に、既存の池にさまざまの名石を据え、池に向かって三層の豪華な舎利殿金閣を建て、山上に展望所を建てています。金閣は、屋根をこけら葦とし、第二、三層全面に金箔を押すという、北山文化の象徴となる華麗な建築で、義満の権威と王朝への憧れが示されています。 金閣は昭和25年に火災により焼失しましたが、昭和30年に復元されました。

鹿苑寺 (金閣寺)

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慈照寺 (銀閣寺)
足利義政が文明14年に東山山麓に造営した別邸東山殿を義政の死後、禅寺に改めたものです。東山殿は西芳寺をモデルに造られ、池を囲むように観音堂(銀閣)、持仏堂などの建物が配され、文化人のサロンとして賑わっていました。その後一時、荒廃しましたが、17世紀中期に復興されました。銀閣は長享3年建築の二層の楼閣で、下層は和洋の書院風、上層は禅宗様の仏堂風につくられています。東求堂は守護仏をまつる持仏堂と書斎を兼ねた建物で、文明17年に建てられました。背面東側にある4畳半の同仁斎には現存最古の付書院と違棚が設けられており、書院造の源流と位置づけられています。庭園は戦国時代に荒廃しましたが、元和元年の復興時に改修したものと考えられています。

慈照寺 (銀閣寺)

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龍安寺
白砂と石による抽象造形、枯山水庭園の代表例。設立年代は15世紀中期復興。 貴族の別荘を宝徳2年に禅寺としたものであり、長享2年に万丈が復興されて、諸堂が整備されました。寛政9年に焼失したため、慶長11年に造営された西源院万丈を移築したのが、現在の万丈です。万丈の南側に広がる万丈庭園は、15世紀中期になって造られていたものと考えられています。東・南・西面を築地塀で囲まれた矩形の石庭で、白砂敷のなかに5群15個の石組が配されています。自然を限られた空間に圧縮し、抽象化して表現する枯山水庭園の極限的な姿であり、世界的にも著名です。

龍安寺

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本願寺 (西本願寺)
豪壮華麗な桃山文化の集大成。設立年代は16世紀後期再興。 宗祖親鸞聖人によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山で、当初京都東山に創建され、その後各地に寺基を移しましたが、天正19年豊臣秀吉により寺地寄進を受けて、現在地へ移りました。伽藍は移転後、直ちに整えられ、寛永10年頃にはほぼ現在に近い姿となりました。元和4年に造営された書院は、公的な接客の場である対面所と私的な場である白書院から構成された建物で、豪壮な書院造の形態を踏襲しています。東側に配された虎渓の庭と呼ばれる枯山水庭園は、滝・渓流・海を現した単純明快な構成ですが、色石やソテツを用いるなど、派手で大胆な桃山時代の豪華さが表わされています。

本願寺 (西本願寺)

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二条城
江戸時代、京都における徳川政権の拠点。設立年代は17世紀初頭。 慶長8年に徳川幕府により、京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営され、その後寛永3年に、大規模な拡張・修復工事が行われました。現在の二之丸御殿は基本的にはこの時のもので、ほか本丸内には弘化4年に造営された旧桂宮御殿が移築されています。二之丸御殿は武家風書院造を代表する建築で、式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の各殿舎からなり、二之丸庭園の池に沿って雁行形に配されています。各室は部屋の目的に応じて障壁画が描かれ、欄間彫刻・飾り金具・釘隠し等が豪華に飾られているなど、意匠が凝らされています。

二条城